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J鉄局TOP>珍車ギャラリー>南阿蘇鉄道 DB10形 トロッコゆうすげ号牽引機
南阿蘇鉄道のエースは無名の移動機だった−−DB10形−−2007年 南阿蘇鉄道の主役、トロッコ列車ゆうすげ号が一新されました。いわゆるトロッコにあたる特殊客車トラ700は、改造して使用されますが、 牽引機である機関車は、DB10形から、新車であるDB16形に世代交代しました。 一回り大きくなったDB16形ですが、それでも小さく、2軸の貨車であったトラ70000でさえ大きく感じるほどです。 そんなDB16形よりなお小さいDB10形こそは、日本一小さな機関車と思われている方も多かろうと思います。 しかし、実際は大井川鉄道(井川線)のDB1形(加藤製作所製8t機)が存在しますし、 ほぼ保線用車両といってもいい位ですが、富山地方鉄道/北陸鉄道のDL1形(7t機同型)というのもあります。 ELではえちぜん鉄道のテキ6も10t以下です。 また古くは加悦鉄道のDB201形というのもありまして枚挙にいとまがありません。 それはさておき、この南阿蘇鉄道DB10形ですが、どこかで見たような気がしませんか。 いつもは駅の片隅で昼寝をきめこんでいて、 国鉄の貨物列車がやってくると、2,3両ほどの貨車を切り出して、 ガタンゴトンと隣接する工場の引き込み線に消えてゆく、 あのナンバープレートさえない小さな朱色の機関車…。 そうです、あれです。 実は、彼らは本線上を走らないことから、車籍すらもたず、貨車を移動する機械として、 鉄道界の場末で人知れず働いていたスイッチャーとも呼ばれる移動機だったのです。 彼らが生まれて間もないころ、 国鉄は貨物列車の見直しにより、貨物を拠点間直行形の列車に集約しつつありました。 そんなわけで、小口の貨車を組み替えて列車を仕立ててゆく移動機の役割は急速に失われてゆくことになります。 そんな時代の波に取り残され、解体もされず、駅構内の片隅で朽ち果ててゆく移動機達の姿を私は何度となく目にしてきました。 まだまだ使えるのにと思うにつけても彼らが哀れでなりませんでした。 南阿蘇鉄道の彼らも一つ間違えば、同じように屍をさらすことになったかもしれなかったのですが、 これまた時代の波に取り残され消えてゆく運命にあった地方ローカル線からお呼びがかかります。 これも何かの因縁かもしれません。 南阿蘇鉄道は、国鉄再建法のもと、赤字83線でかつ一次対象路線に挙げられたほどの不採算路線です。 生き残るためには、地域の人々の足を支えるだけでは到底成り立ちません。 そこで日本全国から観光客を呼び込もうということになりました。 とはいえ、豪華な観光列車を新造する余裕などはありません。 余っている貨車を使って、トロッコ列車を仕立てようということになったのです。 ”トロッコ列車ゆうすげ号”の誕生です。 そして機関車については、線路の規格がもともと低い高森線に重量のある国鉄形のDLでは負担が大きいので、 これも当時、全国的に余っていた移動機を本線用に仕立て直そうということになったのです。 結構、勾配がある高森線で使うには、出力が小さいため2両導入したのですが、 これは大正解でした。 機関車は、それぞれ列車の前後に連結、プッシュプルで運用することにしました。 こうすれば機回し線を使うこともないし、連結の作業もしなくてすみます。 人も物も時間も節約できるというわけです。 以後、JRを初め多くの鉄道会社でトロッコ列車が運転されることになりましたが、 機回し線を必要としないスタイルが主流となってゆきます。 先見の明があったということでしょう。 しかし、もと移動機である彼らに総括制御(一つのコントローラーで2台動かす)などどいう芸当ができるはずもありません。 かといって、運転手を二人乗車させ合図でもって協調運転するというのも人手(人件費)がかかります。 というわけで、総括制御できるように改造されました。 加えて、なんと気動車のMT2000形とも協調運転ができるようにしました。 このことがまた、多客時の切り札にもなるのです。 ところで、移動機である彼らの最大の弱点はなんでしょう。それは遅いということです。 もっとも、トロッコ列車は、急ぎの旅とは対極にあるものです。 私が乗車したときも車掌さんが「日本一遅い!!」と豪語されていました。 とはいえ、それにも限度があります。 ゆうすげ号は、立野ー高森間を一時間かけて、のんびり走ります。 でも、これ以上遅くなったら、いくら列車本数が少ないとはいえ他の列車に影響が出ます。 それにお客様にも1時間ぐらいが、ちょうどいい「のんびり」ではないでしょうか。 もともと移動機には、スピードは要求されていません。 遅くとも、とにかく重量のある貨車を移動するトルクの高さが要求されているのです。 そこで、トルクを抑え、最高時速を15km/hから25km/hにUPしました。 さて、そのときにどんな細工をしたと思われますか。 なんと、車輪の直径を大きいものに取り替えたのです。 貨物用のSL D51の動輪直径をUPして、急行用に改造したC61と同じ発想ですね。 目からウロコです。いろんな意味でお金のかからない方法が用いられています。 そんな努力の集大成が、南阿蘇鉄道の存続を決定づけたともいえる”トロッコ列車ゆうすげ号”です。 会社の屋台骨を支え続けて20年。 その間、代わりはいませんでした。 特に晩年は経年による車両の性能低下もあって とりわけ夏場のメンテナンスには苦慮されたようです。 でも、南阿蘇鉄道の主役、いや救世主として働き続けた誇り高き彼らを、私は心から讃えたいと思います。 トロッコゆうすげ号+DB101 中松駅 2005.8.1撮影 2005年8月。私は彼らと再会しました。 写真をご覧ください。磨き抜かれた黒いボディを!。 前述したように、多くの移動機たちは、無念の最期を遂げました。 子供達の歓声を背にうけて、美しい南阿蘇のカルデラを走り続けた彼らは、何という幸せ者であったことか…。 参考文献;鉄道ピクトリアル 新車年鑑 87、08 日本のローカル私鉄(寺田裕一氏
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