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2007.3/18.21追補
鉄道写真管理局東京メトロ東西線 5000系 アルミカー
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 J鉄局TOP珍車ギャラリー東京メトロ 5000系 アルミカー
東京メトロ東西線 5000系アルミカー5150 クモハ5150
CM2
(アルミ試作車) 1966年9月 川崎車輛 製
長さ(m) 幅(m) 高さ(m) 自重(t)
20.000 2.870 4.145 31.5
駆動方式 制御器(M1車に) モーター(kw) ギア比
WN ABFM-138-15MDH
1500V/DC
MB3088AE2-T
100×4
6.19
ブレーキ 定員(座席) 冷房機 台車(製造)
HSC−D 144(54) 当初なし FS-502A
(住友)
*ステンレス製の車両は36.0t   *末尾50.52は川崎.51は日車製
(写真は、5150 営団時代冷房化以後のもの 西船橋駅にて)

*この春引退。東京メトロ東西線5000系

 この春、東京メトロ東西線から5000系が引退することになったそうです。
かつて営団地下鉄東西線といわれた頃、私は何回となく西船橋の駅を訪れました。
お目当ては、東西線に乗り入れる国鉄/JR301系、103系1200番台、そして総武緩行線の201系900番台等です。
もちろん東西線の5000系もターゲットですが、国鉄/JRのスジが少ないせいで、とにかくやってくるのは5000系ばかり、
「もう、いい加減にしてよ。」と辟易していたのが思い出されます。(でも、無くなると聞かされると、やっぱり寂しいものですね。)
「また5000系か…」と思って見てみると、ちょっと毛色の違うのが、滑り込んできました。5000系アルミカーです。
考えてみたら、50編成近くあった内のわずか3編成しかアルミカーはいないわけですから(83年当時)
少しは粘らないと写真は撮れない代物です。でも、西船橋には他のターゲットが沢山あったものですから、
結構粘って撮影をしていたことになるのでしょう。5000系アルミカーについては、結構写真がそろっています。

 初めて、お目にかかったときは、「ふーん こんなのもいるんだ。」という程度のものでしたが、
登場時の歴史的経緯などを、色々調べてみて、その存在感の大きさをあらためて実感させられました。
今回、この春引退することになった、このアルミカーについてご紹介させていただきます。

*東西線のこと

 東西線(5号線)が開通したのは、1964年(昭和39年)。高田馬場−九段下の地下区間からです(4.8km)
当時は地上に車庫もなく、5000系は九段下にあった留置線上の穴から吊り降ろされて搬入されました。
もちろん、国鉄線との相互乗り入れは、当初から予定されていましたから、
66年に中野まで延長されてからはこんな光景は見られなくなります。
なお西船橋まで全通したのは、1969年(昭和44年)のことです。(30.8km)
 全線の半分近くを高架線が占めるという、今までとは変わった地下鉄であることに加えて、
西船橋と中野で国鉄線と接する東西線は営団で初めて、国鉄線との相互乗り入れを始めることになりました。
ところが、大半の列車は中野-西船橋間の営団線内の運転で、西船橋以東はラッシュ時にしか乗り入れません。
車両数だけでいうと営団420対91国鉄(83年)となりますが、前述したように国鉄車を用いた運用は少なく、
実感としては、もっと国鉄車の運用は少なく感じられました。
しかし、この東西線において、いや営団にあって国鉄の存在は、予想以上に大きいものなのです。

*営団地下鉄、すなわち帝都高速度交通営団とは、

 東京地下鉄株式会社法により2004年(平成16年)解散し、
同年4月よりその一切を東京地下鉄(東京メトロ)が承継したということは周知のことだとは思いますが、。
営団地下鉄とは、1941年(昭和16年)戦時統制下、帝都高速度交通営団法により
現在の銀座線を運営していた東京地下鉄道及び東京高速鉄道を統合、路線を譲り受けたという特殊法人でした。
 ちなみに「広辞苑」で「営団」を調べてみると、 ----

えいだん【営団】(経営財団の意)第二次世界大戦中、戦時経済の運営の必要から、
   国家的統制の下に公益事業を行う物として設けられた特殊法人。
   戦後、帝都高速度交通営団を除いて廃止。

とあります。思えば長い間、戦後を引きずっていたといえるでしょう。
 
 そんなわけで、国家統制といった色合いの残る営団地下鉄は、民間の資本を排し、
国鉄、東京都がその出資者となっていました。

*国鉄との取り決め 営団5000系誕生

 (写真は、5048 当初千代田線に配属されたグループに属します。営団時代冷房化以前のもの 西船橋駅にて)

東京メトロ東西線 5000系
 東西線の規格仕様は、1067mm軌間、直流1500v架空線式となり、
車両も国鉄103系などと合わせ、20m4ドアとなりました。
それ以外に次のような取り決めもなされています。

1:製作費の減少を計り、外見仕様は通勤車に徹すること。

2:客室内設備は従来の営団車両と同程度にすること。

3:保守の容易な、また損耗品の寿命の長い構造のものとし体裁は、第二義的に考えること。

4:工場入場車の在場日数を極力少なくするよう機器部品は予備品と交換する検査方式を採用し、 各機器の着脱が容易なぎ装方式を採用すること。
 



日比谷線における3000系が、他の乗り入れ会社である東武2000系や東急7000系と較べ、
そのデザインが格段に優れたものであることははっきり言えると思うのですが、
国鉄は、東西線においてデザイン面で張り合うだけの余裕がなかったのでは…とも思われる内容です。
営団地下鉄の親方が、国鉄である以上、国鉄線との乗り入れに際して
国鉄側からの条件を受け入れてゆくのは至って自然なことです。
 こうして流麗な3000系とは違う、実用性重視の車輛5000系が誕生したのです。

営団5000系 アルミカー誕生

(写真は、5950 営団時代冷房化以前のもの 西船橋駅にて)
営団地下鉄 東西線5000系アルミカー
 5000系アルミカーは、昭和41年に、まず5150の編成が7両製造されました。5000系としては2次車のグループに入ります。
製造した川崎車両は、アルミカーの製造については先駆者的存在で、
日本初のアルミカー山陽電鉄2000形も川崎車両の手になるものです。
アルミのメリットは、なんと言っても、軽量であるということです。
5000系(5000形)同士で比較してもステンレス車が36tであるのに対し、アルミカーは31.5tで4.5tの軽重化がなされています。
デメリットとしては、高価であるということが挙げられます。
アルミ地金の製造に際し、かなりの電気代がかかってしまうからです。
しかしこの電気代相当分は、軽重化による省エネ効果により3年間で回収できるということですので、
多少、初期投資は高く付きますが、長く使えば使うほどに経済的であるといえます。
そんなわけで当時の国鉄と較べて財力に余裕のあった営団地下鉄は、6000系(製造初年;昭和43年)以降、積極的にアルミカーの導入を進めてゆきます。

 ところが、5000系については、昭和56年まで、なんと17年の長きにわたって、生産されたのにもかかわらず、
アルミカーはというと、昭和43年以降製造されていないのです。
5000系アルミカーは、昭和42年製(3次車)の5151.5152の2編成分と合わせて21両しか製造されません。
これは、なんと、5000系全体(=426両)の 5%程度にしか過ぎません。
なぜ、昭和43年以降、東西線ではアルミカーを量産しなかったのでしょう。
ここで東西線におけるパートナー、国鉄にもう一度目を向けてみます。

*国鉄初のアルミカー301系

5000系アルミカーと歩調を合わせるかのように、昭和41年、国鉄は301系を、オールアルミニウム製で登場させます。
国鉄初のアルミカーで、103系のイメージを引き継ぎながらも各所に新機軸が取り入れられた画期的な車輛です。
さあ、これで、東西線の役者はそろったと思われたのですが、
昭和45年には、普通鋼製の103系1200番台が投入され301系の製造はストップしてしまいました。
長い目で見たら経済的ではあっても、高価なアルミ製車輛を財政難の国鉄は投入できなくなってしまったのです。
国鉄2番目の営団地下鉄乗り入れとなる、千代田線にあっても、103系1000番台が投入されました。
営団は、千代田線に、あの革新的な6000系を投入したわけですから、国鉄の後退ぶりを感じないわけにはいきません。
東西線での、あの取り決めがあった年から数年しか経っていないわけですが、
もう国鉄は営団の親方として、大きな顔が出来なくなってしまったのでしょう。
加えて、千代田線には、小田急も乗り入れてくるという事情もあります。

*東西線では5000系ステンレスカーを増備

営団が、千代田線にアルミカーであり、かつ電機子チョッパという高価なデバイスをもつ6000系を導入した反動でしょうか。
東西線には、在来型である5000系ステンレスカーが、増備されました。
国鉄が、301系アルミカーを増備してこないのであれば、これで十分ということになるわけです。
となれば、5000系アルミカーは宙に浮いた存在となってしまったかに見えますが、
5000系アルミカーは、軽量であること以外にも、無塗装でもやっていけることなど、その経済性を立証しました。
営団が、6000系以降製造した車輛の全てにアルミカーを採用したのがその証です。
そして右へならえというわけで、各都市の地下鉄線をはじめ通勤形電車の多くがアルミカーとなってゆく、
その流れの源流に、東西線の2つのアルミカー(営団5000系アルミカーと国鉄301系アルミカー)が、存在すると申せましょう。

5000系ステンレスカーの1次車は、廃止され、早いものでもう10年以上の歳月が過ぎましたが、
5000系アルミカーは、93年に、10連化に伴う余剰車(7編成×3本=21両→10編成×2本=20両 …余剰車1両)を除けば、
2次車であるのにもかかわらず、他の若い5000系ステンレス車輛とともに最後まで生き残ってきました。
40年以上働き続けたわけで、その耐久性も合わせて立証されたことになるでしょう。

*そしてリサイクル。東西線05系に引き継がれるアルミ素材

 それだけではありません。前述の余剰車5453は、廃車された後、アルミ合金別に、選別、回収、溶解し、翌94年。
同じく東西線で活躍する05系第24編成にリサイクルされたのです。
初めての相互乗り入れを実現した日比谷線。内外に新機軸を導入した6000系が走る千代田線 等に較べ地味な印象がする東西線ですが、
アルミを軸とした鉄道のトレンドをリードしてきたのです。

この春、姿を消す5000系アルミカーも、またリサイクルされることによって、
鉄道車輛が、いかに環境に優しいかを東西線からアピールして欲しいと期待しています。

東京メトロ東西線05系 リサイクル車
東京メトロ東西線05系 リサイクル車05-024  西船橋駅 2006.3.24

追補;
東西線から姿を消した5000系ですが、そのうち6両(3両編成×2)が、千代田線(北綾瀬支線)に残ることになりました。
すべてアルミカーです。


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